髭を剃り始めたら止まれない朝
自分の顔と距離が取れない日がある。
朝7時半に目覚まし時計を止めて、洗面台の前に立った。髭剃りを持ったまま、鏡の中の自分と10秒くらい目が合っていた。
いつもなら3分で終わる作業だった。左の頬から右へ、顎、首の順で流れ作業で終える。遅刻するような時間じゃなかったし、その日の打ち合わせも先方の雑談で5分は押すやつだった。
でも、右のもみあげの下に剃り残しを1本見つけてから止まれなくなった。剃った。剃った後、隣にまた1本気になった。それも剃った。気がつけば鏡に近すぎるくらい顔を寄せて、毛穴をひとつずつ確認するみたいに髭剃りを当てていた。
10分経った。15分経った。家を出なきゃいけない時間はとっくに過ぎていた。それでも止まれなかった。
髭が気になっていたわけじゃない。
自分の顔に細かく執着している朝は、経験上、自分のことがあんまり好きじゃない日だ。昨日仕事でちょっとミスをして、気にしないフリをして帰ってきた夜の翌朝。そういう日に限って、鏡の前で止まれなくなる。
顔のせいにしている、というのが一番近い気がする。仕事で落ち込んだ自分を責めるのはしんどいから、代わりに毛穴とか、もみあげの長さとか、目の下のクマの濃さを細かく責めている。「この顔で人前に出るのが恥ずかしい」ということにしてしまう方が、理由が分かりやすくて楽なんだと思う。
会議に遅刻するのは分かっていたのに、マスクだけ鞄に突っ込んでようやく家を出た。エレベーターの中で、自分の靴下が左右で色違いなことに気づいた。黒と濃いネイビー。どっちも黒いつもりで穿いていたけど、蛍光灯の下だと微妙に違う。気づいても戻らなかった。
電車の中でスマホのインカメラを開いて、もう一度、自分の顔を確認した。剃った場所はよく見ても普段より綺麗なわけでもなくて、肌が少し赤くなっているだけだった。
顔を変えたいわけじゃない。顔の造形そのものにはそこまで不満はない。ただ、今日この顔で人と目を合わせて話すことに、ほんの少しだけ納得がいっていない、というそれだけの話だった。
打ち合わせの席で相手の目を見て喋りながら、頭の片隅で「今朝、髭剃りに20分かけた」と考えている自分が少し滑稽だった。
夜、家に帰って洗面所をもう一度通る。鏡はさっきと同じ位置にあって、さっきより少し疲れた顔の男がこっちを見ている。
明日も同じ時間に目覚ましは鳴る。明日の朝、髭剃りが3分で終わる人間に戻れているかは、今夜の時点ではまだ分からない。
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